こんにちは、「マンガ愛読者の部屋」のAJIです。
井上雄彦先生が描く壮大な宮本武蔵の物語、『バガボンド』。そのページをめくる手が止まらなくなるほどの圧倒的な画力と、人間の内面、強さ、そして弱さを深くえぐるような描写に、私も完全に心を掴まれた読者の一人です。
ですが、それと同時に、多くのファンがもう何年も抱え続けている大きな疑問がありますよね。そう、「バガボンドの完結はいつになるのか?」という、切実な問いです。物語がクライマックスである「巌流島の戦い」を目前にしながら、2015年から休載が続いています。
連載が止まった理由は何なのか、ファンの間でささやかれる作者の井上先生の病気説は本当なのか。このまま未完で終わってしまい、伝説の「駄作」になってしまうのではないか…。そして、もし完結するとしたら、原作である吉川英治の『宮本武蔵』通りの結末を迎えるのか、それとも全く違う結末になるのか…。
考えれば考えるほど、色々な情報や憶測が飛び交っていて、不安になっている人も多いかなと思います。
この記事では、そんな『バガボンド』の完結を待ち望む皆さんのために、現在公表されている事実関係を丁寧に整理し、作品の文脈を深く読み解きながら、私なりの考察を交えて、「休載の本当の理由」から「未来の結末の可能性」まで、網羅的に、そして深く掘り下げて解説していきますね。
記事のポイント
- 『バガボンド』の現在の連載状況(休載)
- 長期休載の本当の理由と作者・井上雄彦氏の葛藤
- 原作や過去の展覧会から考察する結末のシナリオ
- 今後の連載再開の可能性について
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バガボンドの完結はいつ?休載理由を解説

まず、私たちが一番知りたい「なぜ、これほどの作品が止まってしまったのか?」という核心的な部分から深掘りしていきます。この休載の背景には、井上雄彦先生という稀代の作家の、創作に対する極めて誠実な、しかしそれ故に困難な姿勢が関係しているようです。
休載理由は作者の病気?
これだけ休載期間が長引くと、真っ先に出てくるのが「作者の井上先生が、ペンを握れないほどの重い病気なのでは?」という心配の声ですよね。実際に「バガボンド 休載理由 病気」といったキーワードで検索されることも非常に多いです。
読者として先生の健康を心配するのは当然のことだと思います。ですが、結論から言うと、『バガボンド』の長期休載に関して「井上先生が病気である」という公式な発表は、これまで一切ありません。
もちろん、ご本人のプライベートな健康状態について、私たちが知る由もありません。しかし、少なくとも休載の「主な理由」として公表されているのは、健康問題ではないんですね。
むしろ、後ほど詳しく触れますが、同じく長期休載していた車いすバスケ漫画『リアル』の連載を再開されたり、2022年には自ら監督・脚本を務めた映画『THE FIRST SLAM DUNK』を世界的な大ヒットに導いたりと、創作活動そのものは極めて精力的に行われています。
これらの活動を見る限り、少なくとも「病気で全く仕事ができない」という状態ではないことは明らかかなと思います。したがって、休載の理由は別のところにある、と考えるのが自然でしょう。
井上雄彦氏が語る「描けない」苦悩
では、本当の理由は何なのか。それは、井上先生ご自身の口から断片的ながら語られている、極めて深刻な「創作上の苦悩」にあります。
この葛藤が世に知られる大きなきっかけとなったのが、2010年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』(出典:NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』第138回 2010年3月16日放送)での姿です。当時、井上先生は深刻なスランプに陥っており、番組内では「(武蔵を)描けなくなった」「武蔵が嫌いになった」といった趣旨の、非常に重い発言が記録されています。
一人のファンとして、作者の口から「主人公が嫌いになった」と聞くのは、とてもショッキングなことでした。他のインタビューでも、井上先生は「描きたくないのではなく、描けなくなった」「ちゃんと描きたい、でなければ描かないほうがいい」と、ご自身の作品に対する理想の高さと、現実(描けない自分)とのギャップに深く苦しむ姿を見せています。
作品のテーマと作者の葛藤
この「描けない」理由をさらに深く理解するためには、『バガボンド』という作品のテーマが、連載の過程でどう変化していったかを知る必要があります。
連載初期、若き日の武蔵(当時は新免武無)は、とにかく「最強」を求めて他者を斬り捨てる、荒々しい求道者でした。その筆致も、荒々しく、力強いものでしたよね。
しかし、柳生石舟斎(「天下無双」の看板を下ろさせた老人)や、宝蔵院胤舜(十字槍の天才)といった、自分とは異なる「強さ」を持つ者たちとの出会いを経て、物語は次第に「本当の強さとは何か」「いかに生きるか」という、武蔵の「内面」の探求へと、深く深くシフトしていきます。
つまり、『バガボンド』は、単なるバトル漫画や歴史漫画の枠を超え、作者・井上雄彦氏が、宮本武蔵という一人の人間の人生を通じて「道」を求める、極めて哲学的な作品へと変貌していったのです。
ここで、休載の真の理由が浮かび上がってきます。井上先生が描きたいのは、単に「巌流島で小次郎に勝つ武蔵」という「結果」ではありません。彼が描きたいのは、その戦いの先にある「武蔵の内面的な成熟」や「境地」のはずです。
しかし、物語は「巌流島」という宿命の対決へと、作者を「縛り付け」ようとします。作者は、自らが描くべき「哲学的な答え」を見つけない限り、物語のクライマックスである「戦い」を、安易に「消費」することができないのです。
したがって、『バガボンド』の長期休載は、作者の怠慢などではなく、「作者自身が、武蔵という人物の境地に、まだ追いつけていない」という、芸術家としての苦闘の表れであると、私は分析しています。
最新刊は何巻?37巻の続き
ここで、現在の『バガボンド』の刊行状況を、事実として正確に整理しておきましょう。
まず、紙および電子書籍で刊行されている単行本は、2014年7月に発売された第37巻が最新刊となっています。この記事を書いている時点(2025年)から見ても、すでに10年以上が経過していることになります。
そして、雑誌「モーニング」(講談社)での本編の連載は、2015年2月に掲載された第327話「小原(おばる)の関」をもって、長期休載に入りました。
ここで非常に重要な注意点があります。それは、雑誌「モーニング」で最後に掲載された第327話は、最新刊である第37巻には収録されていない、ということです。
つまり、物語の本当に「最後の1話」が、10年近くもの間、単行本化されないまま宙に浮いた状態が続いている…。これが、『バガボンド』の正確な現状です。この未収録話では、武蔵が小田原の宿で休息し、自らの過去や「斬る」という行為の意味を深く見つめ直す、非常に重要な内省の場面が描かれています。
『リアル』と『スラムダンク』の影響
『バガボンド』が休載している間も、井上先生の創作の火が消えていたわけではありません。むしろ、他の2作品での大きな動きが、『バガボンド』の今後を占う上で重要な意味を持っていると私は考えています。
『リアル』の連載再開
一つは、同じく長期休載していた車いすバスケ漫画『リアル』(週刊ヤングジャンプ)が、2019年5月に約5年ぶりに連載を再開したことです。
これはファンにとって、「井上先生が再びペンを握った!」「週刊連載(不定期ながら)のペースに戻ってきた!」という、非常に大きな希望のニュースとなりました。
しかし、これは同時に「『リアル』は再開できたのに、なぜ『バガボンド』は再開できないのか」という、本作が抱える問題の根深さを浮き彫りにするものでもありました。『リアル』が「今を生きる人々」の物語であるのに対し、『バガボンド』は「哲学」そのものを描こうとしている…。そのハードルの高さが改めて示されたとも言えます。
『THE FIRST SLAM DUNK』の大成功
そしてもう一つが、2022年に公開され、世界的な大ヒットを記録した映画『THE FIRST SLAM DUNK』の存在です。
井上先生自らが監督・脚本を務め、自身のキャリアで最大とも言える過去の巨大な作品(スラムダンク)と、十数年の時を経て正面から向き合いました。そして、見事に「新しい命」を吹き込む形で、一つの「清算」を成し遂げたわけです。
『スラムダンク』という巨大な山を一つ越えた今、作者として次に向き合うべき「最後にして最大の課題」として、『バガボンド』が残されている…。ファンとしては、そう期待してしまいますよね。これらの活動は、『バガボンド』という大作に再び向き合うための、長い「リハビリ」あるいは「エネルギー蓄積」の期間だったのかもしれません。
バガボンドの完結と結末の可能性を考察

では、仮に連載が再開されたとして、物語はどのような結末を迎えるのでしょうか。連載が止まっている今だからこそ、私たちがアクセスできる「原作」と、過去に開催された「展覧会」という2つのヒントから、その可能性を考察してみたいと思います。
原作『宮本武蔵』の結末
ご存知の方も多いと思いますが、『バガボンド』には明確な原作が存在します。それは、吉川英治氏による国民的長編小説『宮本武蔵』です。もちろん、この原作小説はとっくの昔に「完結」しています。
原作におけるクライマックス、すなわち「巌流島の戦い」の結末は、以下の通りです。
これが、私たちがよく知る「宮本武蔵」の物語のクライマックスです。では、『バガボンド』もこの結末をそのままなぞるのでしょうか?
漫画版と原作の小次郎の違い

私は、原作の結末がそのまま『バガボンド』の結末に直結するとは到底考えられません。
その決定的な理由は、「佐々木小次郎」の人物造形が、原作と漫画版では全く異なるからです。
原作の小次郎は、武蔵の好敵手(ライバル)として描かれる、プライドの高い有能な剣士です。
しかし、井上雄彦版『バガボンド』の佐々木小次郎は、ご存知の通り、「ろう者(耳が聞こえず、話すことができない)」という、極めて斬新な、まったく新しい解釈で描かれています。
井上版の小次郎は、言葉を持たないがゆえに、剣を通じてのみ他者と「会話」し、世界とつながる、赤子のような純粋な存在として描かれています。武蔵は、そんな小次郎の汚れない純粋さに触れ、自らの「強さ」の意味や「斬る」という行為そのものを、根底から問い直していくことになります。
したがって、巌流島での「対決」は描かれるかもしれませんが、その結末は「殺し合い」ではなく、武蔵と小次郎が互いの存在を通じて「何か」を見出す、まったく新しい形の「結末」になる可能性が非常に高いと私は予想しています。
「最後のマンガ展」が示した「もう一つの結末」
『バガボンド』の完結を語る上で、もう一つ、絶対に欠かせない重要な要素があります。それが、2008年から2010年にかけて、東京・熊本・大阪・仙台で開催された、「井上雄彦 最後のマンガ展」の存在です。
これは単なる原画展ではありませんでした。井上先生が『バガボンド』の「続き」であり「最終章」に触れる部分を、会場の壁や巨大な和紙に直接描き下ろし、空間全体を使ってインスタレーション(空間芸術)として表現した、前代未聞の展覧会でした。
当時、本編がまだ(休載しつつも)連載中であったにもかかわらず、タイトルに「最後」と銘打たれたことが、ファンの間で大きな話題と衝撃を呼びました。
そして、驚くべきことに、この展覧会で描かれたのは、本編がクライマックスとして目指していたはずの「巌流島の戦い」ではなかったのです。
老婆との対話などを通じて、武蔵が「死」を受け入れ、ある種の「悟り」や「救い」を得るまでが、壮大な筆致で表現されました。
この展覧会は、『バガボンド』の「もう一つの完結」であると同時に、本編の長期休載の「遠因」となった可能性を秘めています。なぜなら、井上先生は、漫画本編(雑誌連載)というフォーマットでは描き切れなかったかもしれない「武蔵の最終的な境地」を、先に「展覧会」という別メディアで表現してしまったからです。
これは、作者にとって「武蔵の物語」を(精神的に)一度完結させてしまった、とも言えます。その後、再び本編(雑誌連載)に戻り、展覧会で描いた「最終的な答え」に至るまでの「過程」(=巌流島の戦い)を描くことになったわけですが…一度「答え」を出してしまった作者にとって、そこへ至る「過程」を描くモチベーションを維持するのは、非常に困難であったであろうことが想像できます。この展覧会こそが、井上先生が「描けない」と語る状態につながる、本質的な理由の一つかもしれません。
再開の可能性と時期は?
さて、ここまでを踏まえて、読者の皆さんが最も知りたい「再開の可能性」について、改めて分析します。
結論から言えば、井上雄彦先生が『バガボンド』を「放棄」した事実は一切ありません。
過去のインタビューや発言において、井上先生は「(バガボンドを)描きたい」という意欲を公言しています。これは、先ほど触れた「描けない」という葛藤と一見矛盾するように見えますが、そうではありません。「描きたい(Will)」という情熱と、「(描くべき答えが見つからず)描けない(Can)」という現実の葛藤そのものなのです。
『スラムダンク』の映画や『リアル』の連載など、創作活動そのものは極めて精力的に行われています。これらの「リハビリ」とも言える活動を経て、作者が再び『バガボンド』という大作と向き合うためのエネルギーを蓄積していると、ファンとしては信じたいところです。
ただし、最も重要なことですが、「いつ再開するか」については、井上先生サイドからも、講談社(モーニング編集部)からも、一切公表されておらず、完全に未定です。「来年再開する」というような情報も、すべて憶測に過ぎません。
こればっかりは、井上先生の中で、武蔵の境地と自らの筆が再びシンクロする「時」が来るのを、待つしかありませんね。
休載が長く駄作になった?
関連するキーワードの中には、「バガボンド 駄作」という、ファンとしては非常に悲しい、厳しい検索(意見)も存在します。
その気持ちは、私にも痛いほど分かります。ですが、私は「完結していないこと」を理由に「駄作」と断じるのは、早計に過ぎると強く思います。
『バガボンド』がこれまでに描いてきた第327話までの物語は、その一筆一筆の画力、キャラクターの哲学的な苦悩の描写、コマ割りの芸術性において、日本の漫画史に類を見ないほどの高みに達しています。間違いなく「傑作」です。
もし『バガボンド』が平凡な作品であれば、ここまで「完結」が切望されることもありません。この作品の休載は、前述の通り「作者が武蔵の境地に追いつけない」という、作家としての誠実さの表れです。
安易な結末(=駄作)を迎えることを作者自身が拒否し、「伝説」になるほどの苦悩を背負っている。だからこそ、『バガボンド』は「未完」でありながら「傑作」と呼ばれ続けているのです。むしろ、この「未完」であること自体が、「強さとは何か」というテーマに対する作者の「答えの出ない苦闘」そのものをドキュメントしている作品、とさえ言えるかもしれません。
考察:結末の3つのシナリオ
仮に、本当に仮にですが、物語が再開された場合、どのような完結のシナリオが考えられるでしょうか。これまでの考察を基に、私なりに3つの可能性を考えてみました。
シナリオA:伝統的結末(原作準拠)
武蔵と小次郎が巌流島で対決し、武蔵が勝利する、という原作に準拠した結末です。ただし、前述の通り、小次郎の設定が全く異なるため、単なる殺し合いにはならないはず。「物干し竿」と「木刀」が交わるものの、決着は「死」ではなく、互いの存在を認め合うような、精神的な「決着」として描かれるパターンです。
シナリオB:内面的結末(展覧会準拠)
私が最も可能性が高いと考えるシナリオです。巌流島での対決を、物理的な「戦い」としてではなく、二人の「対話」として描く。勝敗そのものには焦点を当てず、「最後のマンガ展」で示されたような「武蔵の内面的な境地(=死の受容や悟り)」に着地させる結末です。小次郎との対峙が、その境地への最後の扉を開く鍵となるのかもしれません。
シナリオC:巌流島を描かない結末
これは大穴ですが、作者が「物語(巌流島というクライマックス)に縛られる」ことを最後まで拒否した場合、その宿命の対決をあえて「描かない」という選択肢もゼロではありません。最後の掲載話である第327話で、武蔵は小田原で「斬る」ことの意味を見つめ直しています。あのまま武蔵が戦いを捨て、別の道(例えば、農)を選ぶ姿を描いて完結する…という、ある意味最も作家性の強い結末です。
バガボンド完結を待つファンの向き合い方
最後に、『バガボンド』の完結に関する現状の「答え」と、ファンとしての向き合い方について、改めてまとめます。
完結の事実:
『バガボンド』は2015年2月掲載の第327話を最後に長期休載中であり、完結していません。
休載の理由:
作者の健康問題ではなく、作品のテーマ(強さとは何か、いかに生きるか)と作者・井上雄彦氏が深くシンクロし、創作上の深刻な葛藤(「描きたいが、描くべき答えが見つからず描けない」)を抱えているためです。
再開の可能性:
作者は「描きたい」という意欲を失っておらず、『リアル』や『スラムダンク』の仕事を終え、次なるステップに進むことが期待されています。ただし、再開時期は完全に未定です。
私たちが『バガボンド』の「完結」を待つということは、単に物語の結末(巌流島の結果)を知りたいということではない、と私は思います。
それは、作者・井上雄彦氏が、宮本武蔵という一人の人間の人生を通じて見つけ出そうとしている「答え」を、私たち読者も共に見届けたいと願う行為です。
『バガボンド』の完結とは、武蔵が「答え」を見つける時であり、それは同時に、井上雄彦氏が「答え」を見つける時でもあります。




